3.「な」の復活

 少し前まで「行なう」、と「な」が送られているのは自分より上の世代の文章に多い印象がありました。最近になって、ネットのコンテンツをはじめ紙媒体でも若い人が「な」を送っているのを目にすることが増えたように感じます。

 校正の仕事では、この「な」は、何も指示がなければ削除されます。ただ署名原稿で、一貫して「な」が送られていると、そのままにすることが多いです。

 では「な」は、余計なのでしょうか、それとも送る意味があるのでしょうか?

 (1)市役所に行って、転出の手続きを行った。
 
 この2つの「行っ」はそれぞれ「いっ」「おこなっ」と読みます。
 同じ文字なのに読み分けられるのは、「に」と「を」の働きによるものです。

 (2)市役所に行って、転出の手続きを行なった。

 このように「な」を送ると、2つの「行っ」は読み間違うことはありません。
 
 「な」は機能からいえば、「なくても読めるからいい」ぐらいの絶対に必要な送り仮名ではありませんが、「な」が加わると読み間違いようがなくなります。

 では、「正しさ」という点ではどうでしょう。

 私が小学生の頃なら「行ないました」と書いたら、×が付けられたでしょう。校正でも原則は「行いました」が正しいとされます。校正の現場でよく使われている『記者ハンドブック第13版』(共同通信社)でも「おこなう 行う 行い」とあります。

 このようなきまりの基になっているのは「送り仮名の付け方」(昭和48年内閣訓令)です。

 「送り仮名の付け方」では、本則として動詞など活用のある語の送り仮名は、活用語尾を送ることになっています。それに従うと、「行う」となります。同時に「許容」として、「行なう」も認めています。

 「許容」される語はほかにも、表す(表わす)、著す(著わす)、現れる(現われる)、断る(断わる)、賜る(賜わる)が挙げられています。

 みなさんは、この中の語で送り仮名に迷った経験はありませんか?

 この「送り仮名の付け方」は、「法令・公用文書・新聞・雑誌・放送など、一般の社会生活において、「常用漢字表」の音訓によって現代の国語を書き表す場合の送り仮名の付け方のよりどころを示すもの」であり、科学・技術・芸術その他の各種専門分野や個々人の表記にまで及ぼそうとするもの」ではありません。(「送り仮名のつけ方」前書きより)

 ですから、新聞用字用語集である『記者ハンドブック』が「行う」を採用するのは当然のことです。また、個人がネットで「行なう」と書き込むのは自由ですし誤りでもありません。

 ただ不特定多数を対象とした出版物やWEBコンテンツでは、まぜこぜは読みにくいのでどちらかに統一する必要があります。

 さてこの「送り仮名の付け方」は「送り仮名のつけ方」(昭和34年内閣告示)が改定されたものです。改定前も動詞は活用語尾を送るのが原則ですが、例外として「行なう」が挙げられています。つまり、この時は「行なう」、と「な」を送るのが正しかったのです。そして同様に例外として挙げられているのが、表わす、表われる、現わす、現われる、著わす、著われる、行なう、脅かす、断わる、賜わる、群がる、和らげる、といった語です。

 これで年上の人たちが「行なう」と書いていた事情がわかりました。
 では、この頃若い人たちが「な」を送るのはなぜでしょうか?

 おそらく、ずっと以前から「行う」「行なう」は併存していたのでしょう。どちらかというと「行なう」が優勢であったので、「送り仮名のつけ方」では「行なう」を正しいとしたのでしょう。でも改定の時に、活用語尾を送るというルールに従って「行う」を原則として、「行なう」も認めることになったのだと思います。そして学校では「行う」と教えたので、「行なう」は誤りと捉えられることもありました。

 しかし「行う」と「行なう」の違いは、どちらがより親切か、というだけの差でしかないので、インターネットで個人が発信するようになると、自然と「行なう」も使われるようになってきた、ということなのではないでしょうか。使用されている量を計ったり、ルール制定の事情を詳しく調べたわけではないので仮説にしか過ぎませんが。

ただ未来は、日本社会に日本語非ネイティブの人が増えるなら、読みやすい「行なう」がより選ばれるのではないかと予想しています。

2.「づつ」は「ずつ」に直しますか?

 気になり始めたのは10年近く前だったでしょうか。届いたメールやネットのブログに「一個づつ」「一人づつ」と、「ずつ」ではなく「づつ」を見かけるようになりました。

 最初は「D」と「Z」の入力ミスかな? ぐらいに思っていました。手書きなら「ずつ」と「づつ」は間違えっこない。みんながローマ字入力するようになったせいかもしれない。きっと一時的な現象だろうと想像していました。

 ところがそのうちに印刷物や企業HPでも「づつ」を見かけるようになり、ある時、ついにコンビニの店頭でポスターのキャッチコピーに「一杯づつ」が使われているのに出くわしたのです。今のように一般化するちょっと手前の時期です。

 キャッチコピーでは「正しい日本語」からちょっとはずした言葉の使い方をします。この「づつ」も、ちょっとはみ出した気になる存在として使われたのでしょう。

 それ以降も「づつ」は増殖し、今や「づつ」の方が普通、という人もいるくらいです。周りに聞いてみると、20代30代の若い人たちの間で「づつ」は広まっているようです。それより上の年代では、「づつ」は誤りで「ずつ」が正しい、と最近の「づつ」の侵食を憂う声も聞かれます。

 では校正者は「づつ」を「ずつ」に直すべきなのでしょうか?

 その前に、そもそも「づつ」は誤りなのでしょうか?

 実は古くは「ずつ」ではなく「づつ」が使われていました。それが1946年に国が制定した「現代かなづかい」で「ぢ・づ」は「じ・ず」と表記するのが原則になりました。つまり「づつ」は旧かなづかいの表記なのです。

 この「現代かなづかい」は、「ゆふ(夕)」は「ゆう」、「けふ(今日)」は「きょう」と書くなど、それまで複雑だったかなづかいを現代語の音に基づいて大きく整理したものです。官庁ではこれに従うよう求め、広く使用を勧めています。

 そして「現代かなづかい」以降に学校で教育を受けた人たちは「ずつ」が正しい、と学んできたはずです。

 それから40年後の1986年、「現代の国語を書き表すための仮名遣いのよりどころ」として「現代仮名遣い」が告示され、「現代かなづかい」は廃止されました。

 この「現代仮名遣い」の中で、例えば「ひとりずつ」は、「現代語の意識では一般に二語に分解しにくいもの等として、それぞれ『じ』『ず』を用いて書くことを本則とし、『せかいぢゅう』『いなづま』のように『ぢ』『づ』を用いて書くこともできるものとする」とあり、例として「ひとりづつ」が許容されることが記されています。つまり「づつ」は誤りではないのです。

 では、「づつ」はママイキ(直さずそのままでOK)なのでしょうか?

 それは、どんな文書で使われているかによるし、書いた人の考えにもよります。

 「づつ」は旧かなづかいですが、すでに日常的に旧かなづかいをしていた人は高齢のごく限られた層になっています。多くは「ずつ」を身に付けているはずです。ところが今「づつ」は若い人たちに、とくにプライベートな場で使われることが多い、という性格を持っています。

 したがって、公用文やビジネス文書、不特定多数への情報伝達には「ずつ」、メールやSNS、プライベートなやり取り、個人の表現の場では「づつ」「ずつ」どちらでもOK、といった使い分けをすることが今の状況では適当といえそうです。

 もちろん、こうした使い分けを踏まえれば、企業がSNSで若いファンを増やすために、あえて「づつ」を使って親しみやすさを演出する、といったこともできるでしょう。

 校正では「ずつ」か「づつ」かは、だれが、何を、だれに伝えたいかによって、どちらに統一するかが決まります。

本を買うには理由が要る

年末は急ぎの仕事ラッシュ。
もうちょっと早めにご依頼いただけないかと毎年この時期思うのだけれど……。

一部納品したらちょっと待ってとストップがかかり、時間がムダになったとがっくりしているところに、急ぎの校正刷りと一緒に、アマゾンで注文したペーパーバックが配達された。

注文してからなかなか届かないなあと思っていたら、エアメールだった。それはそうだ、洋書だもの。

くまざわ書店で翻訳本に出会って、でも読む本がまだ溜まっているのであきらめたものの、装丁が忘れがたかった。

英会話のクラスで冬休みに英語の本のレポートが宿題になったので、これで英文の原著と翻訳本を合わせて買う理由ができたといそいそと発注したのだった。

『戦下の淡き光』(マイケル・オンダーチェ著、作品)、‟WARLIGHT" by Michiael Ondaayje

戦下の淡き光
戦下の淡き光

Warlight: A novel
Warlight: A novel

1.私たちはなぜ、「障がい」と書くのか(4)

(4)「障がい」の行方

 前述の宝塚市では、「障碍」には振り仮名を振ることになっています。一般市民には読みにくいという判断が働いているからでしょう。ですからこの先、自治体など公的機関が「障碍」を使うようになっても、とりあえずしばらくは「障がい」が広く使い続けられると思います。

 この「ショウガイ」問題は、文字表記の問題として扱われています。しかし言葉は読み、書くだけではありません。話し、聞くものでもあるのです。
 たとえば文字を見ることができない視覚にショウガイのある人にとって、耳で聞く「障害」「障がい」「障碍」「しょうがい」はいずれも同じ音で区別できません。

 日本には、日本語の非ネイティブの人も暮らしています。中には会話はできるけれど読むのは苦手、漢字は読めない人もいます。その人たちにとって「害」と「碍」の区別はあまり意味を持ちません。

 またかつて「精神薄弱」という名称が適切でないとして「知的障害」と改められました。これを「知的障がい」に変更すると、もっと適切な表現になるのでしょうか。どれだけ適切になるのでしょうか。

 「害」は小学校4年生、「障」は6年生で習う教育漢字です。
 4年生は「害」を習っても「しょうがい」と書き、6年生は「障がい」と書くのが正しいと学校の教室では教えているのでしょうか。
 6年生に、「害」は習ったから「障害」と書きましょう、という指導はないのでしょうか。「ショウガイシャ」を漢字で書くという問題で「障がい者」と書いたら、誤答になるのでしょうか、それとも正答なのでしょうか。

 「障がい」は、「障碍」が普及したら消えるのでしょうか。しかし「障碍」がすぐに広まる気配はなく、ますます「障がい」が優勢になっているような気がします。

 日本語の平仮名は便利な文字です。
 漢字で書けないときや相手が読めないだろうと考えたとき、平仮名で書くことができます。また、日本語を文字で表すとき、漢字の元々の意味を離れ、音だけ借りて使われているものもあります。平仮名もそうやって作られた文字です。ですから平仮名を使うことで、漢字の意味から解き放たれるという効果もあります。したがって、「がい」は「害」でもあり「碍」でもあり、またそのどちらでもない、ということもできます。

 皆が読めて書ける「害」という漢字があるにもかかわらず、「がい」と平仮名で書かれた、何とも不思議な「障がい」という表記。この先どこに向かっていくのでしょうか。観察を続けたいと思います。

1.私たちはなぜ、「障がい」と書くのか(3)

(3)校正の現場ではどう対応するか

 表記統一や校正は、クライアントからの指示通りに行うのが原則です。ただ、企画趣旨に沿って、こうしたらもっとよくなる、という提案をすることはあります。
 たとえば、著者が「障碍」にこだわって使っており、編集者から「障碍」で統一するという指示があればその通りにします。しかし校正の依頼があるのは、そもそも多くの人に読んでほしい、理解してほしいからなので、初出にはルビを振ってはどうでしょうか、といった提案はすると思います。

 また法令では「障害」が使われているので、「障害」が使われている法律の名称や法令の文が出てきたときは「障害」のままです。

 では地の文章ではどうでしょうか。
 不特定多数を対象としているもので「障碍」にこだわる必要がない場合、または何も指示がない場合、「障がい」で統一する可能性が高いでしょう。なぜならそれが世の中の多数派だからです。

 校正校閲の講座で、参加者に「障害、障がい、障碍のうち、どれを使いますか」と質問すると、「障碍」はほとんどいません。あとは「障害」か「障がい」です。若い人ほど「障がい」派が多いという印象を持っています。参加者が20代中心のクラスで、ほとんどが「障がい」だったときは、そこまで浸透しているのかと驚きました。自治体の市民向け文書でも「障がい」をよく見かけます。

 表記統一では「長いものに巻かれる」というのも基準になりうるのです。
 それは、対象読者の読みやすさを大事にするという、印刷物やWEBコンテンツの宿命です。

1.私たちはなぜ、「障がい」と書くのか(2)

(2)「碍」を常用漢字表に入れるべきか

 文化庁には、常用漢字表に「碍」を入れるように要望が届いているそうです。
 漢字という文字は無数にあり、新たにいくらでも作ることが可能です。
 しかし皆が自分の好きなように漢字を使ったら、たとえば、市の広報紙の漢字の使い方がバラバラだったら、大事なお知らせがちゃんと伝わらないかもしれません。そのため情報伝達やコミュニケーションが円滑に行われるよう、日常的に使う漢字の目安を定めたのが常用漢字表です。「害」は常用漢字で、小学校で習う教育漢字にもなっています。一方「碍」は、教育漢字や常用漢字にも入っていません。

 では、「障害」は常用漢字表に「碍」が入らなかったかわりに使われているのでしょうか。
 本来「障碍」と書かれていたものが、「碍」が常用漢字に入っていなかったので、同じ読みをする「害」を代用して「障害」と書くようになったのでしょうか。

 以前、明治時代の文章に「障害」という言葉を見かけ、それが「障碍」と同じ意味で使われていたので、もしかしたら昔から「障害」と「障碍」は通用されていたのではないかと推測しました。読みが同じで意味が近いので、同じ意味で使われるようになったのかもしれません。だとすれば、すでに一世紀ぐらい前から「障害」と「障碍」の使い分けは厳密ではなくなっていたことになります。

 通用されている用例をもっと集めたらはっきりします。ただ自分で調べるのは面倒だったので、誰か資料を調べて裏付けしてくれないかなあと思っていたら、文化庁がちゃんと調査していました。
 「『障害』の表記に関するこれまでの考え方(国語分科会確認事項)」*という文書の「「障害」と「障碍(礙 がい)」に関する歴史的経緯について」という項で次のように整理しています。

  ・ 「障害」は,戦前から用いられており,江戸時代末期の辞書にも確認できる。
  ・ 「障害」と「障碍(礙)」は,「しょうがい」と読まれる場合には,明治期から同じ意味で用いられており,明確な使い分けはなかったと考えられる。
  ・ 大正期には,「障害」の方が多く用いられるようになったと考えられる。
  ・ 戦後,当用漢字表,常用漢字表に「害」が入り,「障碍(礙)」という表記は少なくなっていった。
  ・ 「障害者」という言い方が広く用いられるようになったのは,戦後になってからであると考えられる。
  ・ 「障碍(礙)」という言葉は「障害」より以前からあったものの,明治期までは「し ょうげ」と読まれる場合も多く,その経緯等を踏まえる必要がある。
*文化庁 平成30年11月22 日文化審議会国語分科会
「『障害』の表記に関するこれまでの考え方(国語分科会確認事項)」
http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kokugo/hokoku/pdf/r1393555_02.pdf


 もし「碍」を常用漢字に入れたとしたら、どんなことが起きるでしょうか。
 「障害」と同様に、「妨害」にも「妨碍」の表記があります。「障碍」「妨碍」が「障害」「妨害」と差し替えになるのでしょうか、それとも両方とも許容されるのでしょうか。ことは一文字の問題ではなくなります。また「障碍」が多数派とは言い難い現状で、「碍」を常用漢字に加えるのは、常用漢字の趣旨からはずれている気がします。
 
 おそらく「障碍」派の、漢字「碍」へのこだわりは、人に関わる「障碍」という熟語に限定したものです。とすると、常用漢字表とは切り離して考えることが必要なのではないでしょうか。*
*以下に、「ショウガイ」の表記と常用漢字表に関する意見がまとめられています。
文化庁 令和元年10月18日 国語課題小委員会(第31回)
配布資料4「常用漢字表に関するこれまでの意見(案)
http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkashingikai/kokugo/kokugo_kadai/iinkai_31/pdf/r1422127_04.pdf

1.私たちはなぜ、「障がい」と書くのか(1)

(1)「障碍」ではなく「障がい」が広まった

 最近は公的な機関が出す文書にも、身体や精神のショウガイを「障害」と漢字二文字ではなく、「障がい」と漢字と平仮名で書かれたものを見かけるようになりました。
 「障がい」が使われ出したのは、はっきり時期は記憶していません。たしか「障害」の「害」は他に害を及ぼすという意味があり差別を助長するので「障碍」を使うべき、といった主張がメディアを通して、広く伝わるようになった頃からではなかったでしょうか。

 もしその意見に同意する人が多ければ、「障碍」の表記がもっと増えていいはずです。しかし現実には「障がい」という平仮名を使った表記が広まっています。*
 なぜ、こんなことが起きたのでしょうか。
*内閣府「平成29年度 障害者に関する世論調査」3.(10)しょうがいの表記
https://survey.gov-online.go.jp/h29/h29-shougai/2-3.html


 「障害」は差別的な表記だと指摘され、「障害」を使うことにためらいが生じ、かといって「碍」は常用漢字ではないし、なじみのない漢字なので、「がい」が使われたのだと想像します。「碍」の平仮名表記というより「害」の平仮名表記で、障害者に配慮した婉曲表現だと私は考えています。

 一方で、宝塚市*では公文書で、「障害者等の『害』には『害する』のほか『わざわい』の意味もあることから『害』の使用を控え、『がい』と表記」することを決定し、さらに現在では「障碍」と表記することになっています。
*宝塚市HP ID番号 1028821 更新日  平成31年3月29日
http://www.city.takarazuka.hyogo.jp/s/shisei/1010515/1028821.html


 自治体や公的機関が「障碍」と表記するのは、差別のない社会を作るのだという意思を市民に示すには有効かもしれません。ただそのために、「障害」を差別的な表記だとして悪者扱いしたことから、「障がい」という漢字仮名交じりの表記が出現したのではないでしょうか。
 しかし本当に「障害」は使うのを控えるべき表記なのでしょうか。

はじめに

片田舎の本屋さんで出会った月刊「言語生活」(筑摩書房刊)。
見坊豪紀さんの「ことばのくずかご」を読んで、今目の前でダイナミックに変化し続ける言葉の面白さに惹きこまれました。

その「言語生活」休刊から一世代分の時間が過ぎました。言葉は移ろい、言葉を扱う編集の現場も随分変わりました。

出版社で編集の仕事に就いたときは、既刊本は活版印刷、新刊はオフセットで、という印刷方式の転換期でした。校正の仕方、書籍作りの工程も新しい環境に対応するため、現場ではいろいろ試行錯誤していた記憶があります。

今、仕事の現場は紙とWEBの二つ。クライアントも出版社だけでなく、編集や校正校閲とは無縁だった事業会社が増えています。そうした企業の社員さんたちからは、漢字の書き分けや文章表現について、よく質問を受けます。回答では文法的な根拠を示すこともあれば、言葉の変化や世代間の使い方の違いなど説明をすることがあります。

そんなとき、「ことばのくずかご」をよく思い出します。

校正の仕事をしながら、本や新聞を読みながら、気になる言葉の今を「コトバノクズカゴ」に拾い集めてみました。

*自己紹介
新卒で入社したのは教科書会社の編集部。大学で日本語学を専攻し、密かに辞典担当を希望していましたが一般書部門に配属。企画から校正校閲、進行管理など書籍編集全般を経験。会社破たん後は転職して寄り道した後、言葉に関わる仕事をしていたいとフリーランスで編集の仕事を再開。本が売れない時代に仕事があるのか不安でしたが、現在は書籍とWEBの校正校閲を中心とする編集業務のほか、ライターとしての執筆業務も加わっています。

シンガポールのクリスマス8 アラブストリートのテ・タリ

熱帯の甘いミルクティー、テ・タリ。

暑い風土によく合う飲み物です。
ボルネオ島に行ったときにフードコートで飲んだきりだったので、アラブストリートのお店に行くのが楽しみでした。

冷たいのも頼めるのですが、暑いときには熱いものが体にはよいようです。

お店の前にはテーブルと椅子が並んでいて、常連さんらしい一組が話し込んでいました。

通りの向かいのカフェはテーブルが埋まっているようでしたが、こちら側では私たちのほかには観光客もなく、猫がイスの下を歩き回ったりのんびりしています。

濃くしっかりと入れられたテ・タリで疲労回復。さて、これからリトル・インディアへ。
テ・タリは熱帯を歩き回るのにもってこいのエイドです。

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シンガポールのクリスマス7 モスクの前でひと騒動

日本にもモスクはありますが、数が少なく、見学もなかなかできません。

アラブストリートのサルタン・モスク(Sultan Mosque)は、観光客も見学OK。
ただし、短パンなど露出度の高い人は、入り口で長いパンツなど借りて入ることになります。

荘厳な金色のドームが印象的ですが、内部も美しく、信者の姿もちらほらありました。

イスラム教の解説コーナーもあり、異文化に触れる場所として、観光ルートにはぜひ入れたいところです。

外に出ると、一足先に出た同行者が若い男性たちに取り囲まれ、"No thank you."とか何とか言って逃れたところでした。

どうしたのか聞いたら、物売りか何かと思ったらしいのですが、振り返るとその3人はまた別の観光客に話しかけています。

どうやら学生たちが、観光客にインタビューをして何かまとめる課題に取り組んでいて、そのために協力してもらえないかと頼んでいる様子。

協力してあげればよかったのに、と同行者に言ったところ、急に寄ってきたので慌てたのだとか。

知らない人に声を掛けるだけでも緊張しているのに、断られてさぞ落ち込んだことでしょう、ごめんなさいね。

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シンガポールのクリスマス6 国立博物館に残る日本の記憶

国内外、初めて訪れた土地のことを知るには博物館がいちばん。
シンガポール国立博物館にまず向かいました。

ヨーロッパの支配以前の、比較的最近発掘された遺跡や遺物から植民地時代、そして独立後から現代まで、国の成り立ちが展示されています。

博物館の白い建物に近づくと、「WITNESS TO WAR remembering 1942」という企画展の告知幕が掲げられていました。

1942年、イギリス軍を破り、日本軍によるシンガポール占領が始まりました。
戦闘では多くの市民も犠牲になっています。
中国本国で日中が戦っていたため、シンガポールでは華僑が厳しく弾圧されました。

こちらの企画展も見たかったのですが、そこまで十分な時間がなかったので断念。

ただ常設展示でも日本の占領時代のコーナーがあり、大変暗い時代として記憶されていることが分かります。
日本は占領した国々で日本語教育を進めました。
ここに展示されていた大人向けの教材は上級レベルで、かなり徹底した日本語教育が行われていたのではないかと想像しました。

アジアの国で日本がどのように記憶されているのか、それに蓋をしたままでは心から観光を楽しむことができなくて、ここにきてほっとしました。

独立後の近代化の過程で街の緑化が推進され、博物館では「Story of the Forest」というデジタルアートを体感できます。
「Story of the Forest」についての記事


上階には、生活空間を時系列で並べて展示をしています。
そこで中国人の女性が履いていた纏足用の小さな三角形の靴を初めて見ました。

様々な文化が交錯するシンガポールには個性的な博物館や美術館がいくつもあります。
もしまたここに来たら、そういう場所を巡るのも楽しそうです。

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シンガポールのクリスマス5 リヴァーサファリでパンダに会う

到着翌日の午後は、動物園へ。リヴァーサファリとナイトサファリを楽しみにしていました。

まずはリヴァーサファリへ。

世界の大河ごとに、棲息する魚や水生生物が展示されています。

このあと訪れたシンガポールの各施設でも感じたのですが、展示には環境問題へ啓発という側面もありました。

最後はパンダのKAI KAI と JIA JIAの住処へ。

日本ではシャンシャンのお披露目が話題になっていましたが、ここでもパンダは大人気。

リバークルーズの乗り場へ向かう橋から川を眺めて、以前訪れたボルネオ島を思い出しました。

クルーズそのものはあっという間でした。

↓KAI KAI(オス)
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シンガポールのクリスマス4 電車のように飛行機に乗れる国

ふとテレビの画面を見たら、シンガポール特集で、チャンギ空港の出国風景が映っていました。

そうそう、これこれ、とちょっとびっくりしたことを思い出しました。

早めに空港に着き、チェックインして出国手続きに向かったら、電車の改札機のようなゲートが並んでいました。

そこでパスポートを開いて読み取らせ、片手の親指をスキャンするとゲートが開きます。

え、これだけ?、と思うほどあっさりしたものでした。

あとは出発時間まで、買い物したり、コーヒーを飲んだり、ゆっくり過ごせます。

夏、中国の瀋陽から発ったときとは大きく違います。

あの時は職員さんがいてピリピリと緊張感が漂っていたし、手荷物検査も周りを見ると、折り畳み傘を出して開いて確認していたり、バッグを開けている人が多かった気がします。
地下鉄に乗るときも改札の前で手荷物検査がありましたし。

かといってシンガポールはセキュリティがちゃんとしてないかというとそうではなく、入国時は指紋登録があり、街中でもシンガポール・フライヤーに乗る前には手荷物検査がありました。

技術のおかげで待ち時間が短くて済むというのはありがたいことです。

とくに小さな子どもや高齢者にとって、長旅のストレスが少ないことは、周りの人も楽にしてくれます。

↓チャンギ空港のクリスマス飾り
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シンガポールのクリスマス3 席を譲られるのは何歳からか?

シンガポールの観光地めぐりは地下鉄MRTやタクシーが便利です。

宿泊地に近いブギス駅はたびたび乗り降りしました。
ここはショッピングモールとつながっているので食事や買い物にとても便利です。

MRTの乗り方や路線はシンプルで、ホームに案内板もあるので迷子なることはありませんでした。

扉に近い座席が赤く塗られていて、優先席になっています。

車内に流れる乗り方の注意の映像がセキュリティ会社のCMになっていて、面白いなあと眺めていたら、後ろから肩をトントンとたたかれました。

振り返ると真っ赤なTシャツを着た若者が、どうぞ、と席を譲ってくれたのです。しかもそこは優先席ではありませんでした。

車内を見回すと、たしかに皆若く、自分がいちばんの年長者だったかもしれません。

びっくりしましたが若者の態度があまりに自然だったので、お礼を言って座らせてもらいました。

横浜なら、自分は明らかに席を譲る側です。
10年後も20年後も、30年後だって年上の人がたくさん乗っているでしょう。
席を譲ってもらうことを期待せず、ちゃんと自分の足で立っていられるように準備しておかなくてはなりません。

シンガポールは本当に「若い国」だということを実感しました。

↓ブギスジャンクション。地下でブギス駅とつながっている。
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シンガポールのクリスマス2 華やか。オーチャード通りのイルミネーション

シンガポールに到着したのは12月24日の夕方。
サンダルを忘れてしまったので翌日はさっそくオーチャード通りに買い物に繰り出しました。

シンガポールでは12月25日は会社も学校もお休みです。

高島屋のおもちゃやゲームの売り場は親子連れで大にぎわい。
イブにサンタクロースがひそかにやってきて、子どもの枕元にプレゼントを届ける日本とは少し事情が違います。

高島屋に来たついでに The Cookie Museum に寄り、お土産用のクッキーを購入しました。
いろいろ試食してすみれのフレーバーを使った黒い缶を選びました。
「手で持って行ってくださいね」と店員さん。
スーツケースに入れたら割れてしまうから、とのことです。

店を出ると、通りはクリスマスの飾りつけで華やいでいました。

28日にシンガポールを立つまで、街中はクリスマスのイルミネーションがそのままで、ずっと楽しむことができました。

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シンガポールのクリスマス1 没収を免れたカヤジャム

帰国時の手荷物検査は、チャンギ空港の搭乗口にたどり着いてからになります。

空港内で買ったお土産の紙袋、リュック、リュックから出したPCをそれぞれトレイに載せました。

そうしたところリュックが引っかかり、「水は入っていませんか?」と聞かれましたが、空港に入る前に飲み切って処分したし、心当たりがありません。

「開けて」と言われファスナーを開けると出てきたのは免税店で買ったカヤジャム。

そうだ、これも水だ――。

没収かと思いましたが、職員さんはカヤジャムの入ったビニル袋を持ち上げてしげしげと点検し、OKになりました。

お店でカヤジャムのパックとレシートを透明袋に入れ、きっちり封をするのを、なんでかなとぼんやり見ていましたが、そういうわけだったのですね。

これが街で買ったカヤジャムだったら、紙袋なんかに入れていたら、没収だったかもしれません。

滞在中は、買い物にあまり時間をかけなかったので、お土産はチャンギ空港で買うことに。

ターミナル2から入り、まず搭乗口を確認しておこうと歩き出したら動く歩道が現れ、目指す搭乗口まで11分という表示。

ひたすら動く歩道の上を歩いてターミナル3との境まで行きました。

そのままターミナル3側の店舗を散策し、BENGAWANSOLOのお店でクッキーを買い、ふとカヤジャムを見つけ、そういえば朝食にカヤトーストを食べに行こうと言ってたのに行けなかったんだっけ、と思い出してかごに入れました。

口当たりがお芋のようなカヤジャムはどこか懐かしく、熱帯の国の余韻をしばらく楽しめそうです。
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中国東北地方旅行10 ラストエンペラーが収監された撫順戦犯管理所旧址

建物の正面に立ち、映画「ラストエンペラー」の終盤で、溥儀が一人この監獄から出てくるシーンを思い出した。

入り口では、ライターを持っていたら預けなければならない。
あとは順路に沿って自由に見学できる。

日本人戦犯や溥儀の生活や思想教育の様子を再現するように、各部屋に人形やベッドなどが置かれていた。

戦犯たちは罪を悔い改め赦された。

罪との向き合い方、償い方、赦し方。それぞれ正解は一つではない気がする。

部屋の中を覗き込んでいると、制服を着た職員が近づいてきたので、一瞬怒られるかと思ったら、あのベッドにこの写真の人が寝ていたのだと指さしで教えてくれた。

外はすでに雨が上がって明るく、隣の幼稚園から子どもたちの歓声が聞こえてきた。

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中国東北地方旅行9 東北家庭料理はこれ。骨付き豚肉のスープ

中国の東北地方に来たらこれを食べてほしい、と日本語ガイドさんが頼んでくれたのが、骨付き肉のスープと、豚肉の角煮とジャガイモの煮物。

ガイドさんのお父さんとおじいさんは、さらに度の強いお酒を飲んで、寒い当地の冬を過ごすのだという。

とにかく豚肉はよく食べるところだと聞いていた。スープの骨付き肉も豚肉だ。

角煮とジャガイモの煮物は八角の香りがした。こってり味でご飯によく合う。平たいさや入りのマメも入っている。自分でも作れそうな気がした。

帰国してから中華街で東北地方の料理を出すところを調べてみたが、こういう家庭的なものはメニューになさそうだった。

個室だったが扉が少し開いていて、向かい側の個室におじいさんから小さな子どもまでいるのが見えた。ずいぶんにぎやかだった。

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中国東北地方旅行8 雨にけぶる撫順炭鉱

その展望台からは、広大な露天掘りの景色が一望できるはずだった。

あいにく小雨が降りしきり、眼下には灰色の地面と、その上でミニカーのような作業用の車が動いているのが見えるだけだった。

周りを取り囲む工場の煙突からは、煙が立ち上っている。

戦時中は日本が支配していたが、今は石炭も掘り尽くされつつあるらしい。

質の高い撫順産の石炭はまさに漆黒の宝石。つやつやして見ただけで並みの石炭と区別できたという。

人の背丈の2倍ほどある巨大な石炭の塊も展示されていた。

日本から取り戻した後、国の産業を支える重要な事業として歴代の国のトップも訪問している。

炭鉱の周辺には、かつで炭鉱で働いていた人たちが住んでいただろうと思われる建物が、空き家のようになっているのが目についた。

↓展望台から。撫順炭鉱周辺。
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中国東北地方旅行7 平頂山の墓碑銘

1932年9月、村の家々では、中秋節で家族親戚が集まって団欒していた。

突然「写真を撮るから」と村人全員が窪地に集められた。
人びとに向けられたのはカメラのレンズではなく銃口だった。

日本軍は村と亡骸の山に火を放って事件を隠ぺいした。

平頂山惨案遺籍址記念館には事件の背景から事件のなりゆき、現場から発掘されたものなどが展示されており、日本語の解説もある。

犠牲者の家族写真、生き残った人の写真、証言(中国語)の音声、それから亡くなった人たち一人一人の名前。

その墓碑銘は沖縄の「平和の礎」を想起させた。

記念館を訪問したのは8月15日。日本では、様々な終戦の慰霊やイベントが行われていただろう。

遺骨そのものが保存されている建物には行かなかったが、遺骨の発掘現場の写真や、生活用品などの遺物も展示されていた。

発掘に当たった人たちの心中はいかばかりだったろうか。

当時子どもだった生存者はのちに日本に対して賠償請求の裁判を起こしている。
詳細「平頂山事件資料館」


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